和而不流(和して流れず)

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「敬老の日」に思う

「どうせ・・・だから」ではなく「壊れるから大事にする」という意識を持つ

「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」
これは江戸時代中期の俳人である滝瓢水の句です。瓢水の句には、知人が遊女を身請けすると聞いて詠んだという「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」、放蕩の末に身代を潰し、苦労をかけた母の墓前で詠んだ「さればとて 石にも布団も 着せられず」などが知られています。
この句の意味するところは、時雨は晩秋から初冬にかけて降る雨ですが、これから海に入って仕事をする海女が、急に降り出した雨を避けるために蓑を着て浜に向かっている。どうせ海に入れば濡れるのだから、蓑など着る必要はないのだが、「浜までは濡れずに行きたい」という海女の心意気を詠んだものですが、瓢水の晩年の生き様を海女に喩えたとも言われています。
小生が平成19年2月議会の一般質問で当時の県知事の職にあった澄田信義さん(故人)に、「知事を退いた後はどうするのか」と所感を求めた際、自身の心境を表すとして「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」と引用されました。
澄田さんは、「自分も高齢となり、残りの時間を意識するようになりましたが、『どうせ・・・だから』と思うのではなく、限られた時間だからこそ大切にする。海に入って濡れるけれども、浜まではちゃんと蓑をつけて(身だしなみを忘れず)、きちんとして行くぞという海女の心意気、私たちに置き換えれば、『おしゃれで凛とした高齢者』でありたい、最後の最期まで世の中のためになろうという心意気を持って過ごしたいと思います。」と答弁し、まもなく知事を退任されました。
小生も還暦となり、少しずつ残りの時間を意識する齢となりました。「敬老の日」にあって、澄田前知事の言葉が頭を過ぎり、限られた時間であればこそ一日一日を大切にしたいものだと感じました。

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