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先月、出雲高校の卒業50年の同窓会に出席しました。
過ぎた年月の経過は一瞬に感じるものの、久しぶりに会った初老の友の額は多くが禿げ上がり、血糖値や血圧、孫がどうしたとする話題と、遠い高校時代の記憶が交錯する不思議な時間を過ごさせていただきました。
出雲高校の校風は「久徴」であり、その出典は中庸の一説「至誠は息む無し、息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり」とされ、その意は、「誠実な気持ちで正しい道を長く歩み続けると、必ずその効果が現れる」と教えられましたが、恩師からは、強い意志を持ちながら、一方では必ず良き人間関係を保つために遠慮が必要だと諭されました。
遠慮とはその字のごとく遠きを慮ることであり、遠きには時間的な遠い将来と空間的な広がりがあります。子どもは遠慮を知らず、礼を弁えることはありません。肉体的には大人であっても、遠慮を知らず、礼を弁えない人は、精神的には幼児性の域を脱していないということであり、私たち、日本人の先達は、時空間の遠きに思いを馳せ、人に対して言動を控え目にすることができる人を大人と位置づけ、礼儀という規範をつくり、いまに伝えてくれたのだと思います。
論語の衛霊公第15に『子(し)曰(いわ)く、人(ひと)遠慮(えんりょ)無(な)ければ、必(かなら)ず近憂(きんゆう)有(あ)り。』とあります。遠い将来のことまで考えて、広く周囲を見回して深い思慮を巡らせておかないと、必ず手近なところに憂うべきことが起きるという意ですが、このところ、連日報道されている兵庫県知事のハラスメントや自民党の派閥パーテイをめぐる一連の問題は、仏教の三毒である「貪瞋痴」を克服できていない醜い人間模様が表面化したもので、日本人の大人が「たしなみ」として持つべき遠慮を所持していない、言い換えれば、精神的な幼児性を抱えたまま権力の行使者となっていることを心から残念に思う次第であり、今更ではありますが、常に「遠慮」を懐においた所作を心掛けたいものだと思う次第であります。
本日の質疑は、小生にとりましては、改選後、1年7か月ぶりの質疑となりますので、多少、錆びついた質疑となるかも知れません。リハビリを兼ねて、一生懸命質疑をいたしますので、ご寛容のほど、お願い申し上げ、通告に従って何点かお尋ねをしたいと思います
│掲載日:2024年09月20日│