県議会だより

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令和7年9月定例県議会一般質問(序文)

はじめに

日本は瑞穂の国と形容されてきました。

実りの秋となり、金色に稔った稲穂が美しい田園風景が広がる美しい季節になりました。

かつては、今の時期は稲刈りの農繁期で、家族・隣近所・親戚総出で田んぼに入り、刈り取った稲を稲はでに投げかける光景が見られたものです。

獲れたての米を神棚に供え、秋祭りで収穫を喜び、感謝をする祭りを行なう風習は今も地域に残る習俗です。

日本は弥生の時代から、大凶作や戦後の混乱期などのほんの一部を除けば、穀物類を完全自給自足してきたと言われ、1960年ごろの穀物自給率は80%台でしたが、近年は30%以下に落ち込み、サミット参加国で最低となっています。

米の政府買い入れや価格支持などの食糧管理政策が廃止され、減反政策や米の輸入解禁、オレンジや牛肉などの農畜産物の輸入自由化と1ドル360円の為替レートが

1ドル70円台まで変動した円高によって、国内農業は採算性を失い、離農、生産者の高齢化、後継者不足、耕作放棄地の拡大などが顕著となって、国民の主食であるコメの供給不足という事態に追い込まれ、「瑞穂の国」の名前が泣いている事態になったと喧伝されています。

昨年から、じわじわとタマゴやコメの価格が上昇してきました。タマゴは餌の高騰や鳥インフルエンザの流行などによる供給量の減少があり、コメは生産・流通量の減少が要因とされていますが、今年の生産者価格を俯瞰すると、コメは再生産可能な価格となったように感じますが、野菜や果樹などの園芸作物は従前と変わらないままであり、水田園芸への移行に危うさを感じています。

世界中で食料危機や食糧安保などが叫ばれ、穀物自給率の向上が課題とされながら、大型化を指向する土地改良以外に国内農業に対する有効な対策が講じられない状況が「瑞穂の国を悪くさせたのは現在の政治だ」とする今夏の参議院選での新興勢力の主張に多くの国民が共感し、与党の敗北の一因となったことは大きな反省です。

また、昨年の衆議院選挙は政治資金に対する国民の政治不信が与党の過半数割れの要因として差し支えありませんが、今夏の参議院選挙の結果は、生活の質が低下していることに対する国民の不満が、既成政党に対する不信となって表面化したと感じます。

丸山知事は、幾たびか、年金・社会保険料を含めた租税負担率の上昇について疑問を呈され、所得税や法人税制の不合理を指摘していますが、私も同感で、知事には、思い切った発信を続けていただきたいと思っています。

 

いつのころからでしょうか、「大きいことはいいことだ」とばかりの政策がまかり通り、行政投資の秤にBbyC,「効率」「費用対効果」という言葉が勝り、一般社会には、「既得権」「弱肉強食」「市場原理」が蔓延してきました。

よく考えてみてください。交通インフラが整った大都市部に住む住民は、電車やバス、タクシーなどに関わる利用料を支払うだけで通勤や消費生活ができますが、交通インフラが整っていない地方に住む住民は、自らが、自らのコストで車という手段を準備しなければなりません。

国鉄の時代は、全国で同じ鉄道サービスが提供され、今ほどの格差はありませんでした。いま、国が関与するユニバーサルサービスは郵便と電話ぐらいで、高速道路や新幹線などの整備は当初の全国を対象とした整備からリニアや東名、中央道など大都市圏中心の整備に変わりました。

郵政民営化によって、地域の郵便局はどんどん減少してきており、電信電話もNTT改革によって、どのように変わるのかは不明で、未だに携帯の不感知地域があります。

ITの普及、進化によって通信技術や情報伝達の方法は大きく変化をしてきており、取り組み次第では都市と地方の格差はほとんど生じないかもしれませんが、人間の移動や教育、医療、福祉、介護、保育など、公共サービスの分野にはそれを提供する社会インフラが必要で、それが人口の多寡を理由に便、不便となることは極めて不合理で、こうした思考が、1票の格差を理由にした国会議員の選出にも影響しているのだと思います。

政治の役割は、利益を得た人から一定の税を支払ってもらって、利益が及ばないところに再分配をするということが基本だと思いますが、この、極めてあたり前のことができなくなってきていることが問題です。そこには「仁」、すなわち、何よりも「思いやり」という概念がなければならないと思います。

明日の天気は人間の手では変えられませんし、もとより、個人で食料生産や災害への備えはもとより病気や老いへの備えを講じることは至難ですが、荒天にあって危機に瀕することが無いような社会、「瑞穂の国」の名に恥じない日本社会を取り戻すことは、私たち、政治に関わるものの役割だと思います。

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