県議会だより

Reports

令和元年11月定例県議会一般質問(序論)

島根創生計画について

今年の誕生日に「もろびとの 思い知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日なりけり」という歌に遭い、中村久子という人のこと思い出しました。ヘレンケラーはその生涯に3度の訪日をしていますが、中村久子さんは、ヘレンケラーに「私より不幸な人、私より偉大な人」と言わしめた、3度の訪日で、3度の会見をした日本人女性です。
明治30年、岐阜県高山市に生まれた少女の足に激痛が走ったのは3歳の冬、霜焼けがもとで、肉が焼け、骨が腐る突発性脱疽となり、両腕を肘の関節から、両足をひざの関節から切り落とされ、「達磨むすめ」と称されるようになりました。
7歳の時、父の死に遭い、8歳の時、母が再婚します。少女が9歳になった時、母は自分がいなくなった後、残された娘が一人で生きていけるようにと、厳しい躾を始めます。
それまで舐めるように可愛がっていた母が豹変し、手足のない少女に着物を与え、「ほどいてみよ」「鋏の使い方を考えよ」「針に糸を通してみよ」、できるまで食事を与えない、容赦のない徹底的なスパルタ訓練の日々は、今なら虐待で、児相の出動です。
少女は必死で、小刀を口に咥えて鉛筆を削り、口で字を書き、12歳になるころには、歯と唇を動かし、肘から先がない腕に挟んだ針に、糸を通し、舌で玉結びにすることができるようになって、近所の友達に人形の着物を縫うまでになりました。しかし、母親に唾でべとべとになった着物を「汚い」として川に投げ捨てられ、少女は歯を食いしばり、血のにじむような努力を続け、15歳になった時、濡れていない単衣を仕立て上げるまでになり、身の回りのことはほとんど自分でできるようになります。
19歳になった少女は、自ら名古屋大須にある見世物小屋「宝座」で「だるま娘」の看板を掲げ、見世物芸人の生活をはじめ、24歳で結婚、翌年、長女を出産します。
2年後、夫と死別後、2度の再婚、出産を経て、自分の子どもを育てるようになったある日、恨みつづけた厳しい母の深い愛に気付き、人生が大きく変わっていきます。
昭和12年、ヘレンケラー女史と会見し、口で縫った日本人形を贈り、「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛されます。昭和23年、京都府立盲学校において、昭和30年、同じ盲学校において、ヘレンケラー女史と三回目の会見をした久子は、以後、福祉や信心の生活の日々を送りますが、見世物小屋で働き始めた時、「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない。一人で生きていく。」と決意して、生涯を通じて国による障害者の制度による保障を受けることはなかったそうです。

中村久子さんの「ある ある ある」という詩があります。

さわやかな 秋の朝
「タオル 取ってちょうだい」 「おーい」と答える 良人がある
「ハーイ」という 娘がおる
歯を磨く 義歯の取り外し かおを洗う
短いけれど 指のない まるいつよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある みんなある
さわやかな 秋の朝

17歳の時に義父に両腕を切り落とされ、辛酸の苦労の末に口筆で人生を切りひらいた大石順教尼のことばに「『できない』と『やらない』を混同してはいけません」とありますが、まさに根底は同じで、「できるまでやる」という強い志が不可能を可能にするということの教えです。
県職員の皆さん、今、島根県がおかれた状況は、少子化や高齢化、財政難で決して楽な状況ではありませんが、人口減少を克服するという知事の強い意志を実現させるために、「できるまでやる」との志を持って懸命の努力をお願いしたいと思います。

過去の投稿

園山繁の活動日誌