和而不流(和して流れず)

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責任を果たすこと

議会人としては国会論戦に期待したい

真夏の衆議院選挙の結果、自民党から民主党に政権交代してから半年が経過した。「政・官・業の癒着を排し、マニフェストを実現するために、脱官僚依存、かつ、政治主導で、スピーディに政策を実現する」という新内閣の方針に多くの国民は期待し、大きな支持を与えた。「予算査定の透明性を高め、徹底的にムダを排除する」と銘打った事業仕分けに拍手喝采した人たちは閉塞感からの脱却を希求し、鳩山内閣の予算編成を固唾をのんで見守った。しかし、現実は、鳩山首相、小沢幹事長に続いて小林議員がカネにまつわるスキャンダルを抱え、一様に、自身は「知らない」を繰り返し、責任はすべて秘書に転嫁する一方で、税収の1.5倍もの国債発行で、子ども手当や高校授業料の無償化、農家への直接補償などの現金給付を行う、いわゆる「バラ撒き」に、期待は失望へ大きく変容しつつある。
一人ではできないことをみんなの力で実現するために、みんなが自分の能力に応じて負担することが税の本質であり、その徴収方法や使い方を公正かつ公平に行うために、民主主義では、選挙で首長や議員が選出され、執行のあり方が議会で議論されるのである。鳩山内閣の「コンクリートから人へ」のスローガンは是としても、税の徴収に大きなコストをかけ、必ずしも政策目的を達成できるとは限らない現金給付のために、再び大きな行政コストを付加して分配することが、政治の責任だとは思えない。鳩山内閣の支持率低下は、内閣が国民の期待に応えていない証左であり、自民党の支持率低迷は、国民の多くが、少ないコストで大きな効果が期待できる政策給付を支持してしていることを、自民党がしっかりと受け止めていないことに尽きる。
外国人への地方参政権付与をはじめ夫婦別姓の許容、成人年齢の引き下げ、死刑の廃止などの法律改正が矢継ぎ早に政府提案されようとしているが、日本人の価値観や国のありかたなど「国のかたち」を変える極めて重大な問題を、国民的な論議をほとんど省略して、多数決で決着させることが本当に正しいのだろうか。「内閣・与党一元化」によって国会の議論を形骸化・幼稚化させることは、三権分立の否定で、国会議員の役割を殺ぐことだと思う。事業仕分けに拍手するのは、スクラップアンドビルドを徹底してほしいという国民の声であり、しかし、政府・与党が仕訳対象を抽出し、メディアで一方的に「たたく」やり方は、水戸黄門ばりの勧善懲悪が好きな国民の嗜好に叶うものであっても、移り気な視聴者がいつまでも支持するとは限らず、永続きするとは思えない。むしろ、国、地方ともに予算要求を透明化し、継続事業の是非についてパブリックコメントを求め、「問題あり」とされた事業について公開で意見聴取することを制度化すべきであり、事実、いくつかの自治体では始められている。いくら、政治はパワーゲームで、政権奪取が政党の目的だとは言え、政党や議員の価値判断の基準が、国益を離れ、目前の選挙の優劣で決まって行くように映る国政の現状に憂いを感じる春分である。

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